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金正恩の真実 金王朝の“深い謎”ビビンバ!北朝鮮!
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飯山一郎へ伝言・密告・質問・短信etc -19-

1:飯山一郎 :

2016/09/15 (Thu) 09:20:45

host:*.sakura.ne.jp
世界で最も裕福な国になった中国に,飯山一郎が3ヶ月も滞在しているのは…,人々の底抜けの明るさ,心のやさしさ,カネを使いまくる鷹揚さ,美しい環境,街なかにも郊外にも公害なんてないし,放射能もない,これほど愉快で居心地の良い国だったとは!という驚きがあるからだ.そういう中国と日本の「国家格差」は,山谷のドヤ街と田園調布,あるいは横綱と幕下ほどの差はないが,今の日本は「落ち目の前頭」が末期癌で死にかけている様相だ.だから「日本」を語るのは今だ!死んだら語れない….
374:小川秀之:

2016/10/07 (Fri) 18:45:52

host:*.com.au
飯山一郎様

小生零細商売で生計をたてている身なので、先生と呼ぶのはやめていただきたいのですが。
あと5年もすれば飯山様は中国政府から勲章でもいただけると思いますが?
飯山様は宮崎濤天以来初めて私心なく中国社会に寄与した日本人となると思うからです。

名刺代わりに書きかけている私的戦後史のの2、3章投稿さしていただきます。
小生のバックグラウンドが多少おわかりになると思います。
下の春とは小生の養母です。



1 春の毒薬

最近まで世にあまり知られていなかったのだが、第二次世界大戦中日本も原爆の研究開発に手を染めていた。                                        
陸軍でのその原爆の研究開発は総勢約30人の科学者により東京の理化学研究所と大阪帝国大学理学部の二か所で行われていた。
その約30人の科学者の中に理化学研究所に1人、大阪帝国大学に1人と2人の若い女性がいたのだが、関係者達は敗戦後それら2人の女性達を守ろうとしたためなのか、今でもその女性たちの存在はほとんど知られていない。
2人の女性のうち大阪帝国大学にいたのが井上春である。
春は神戸女子薬学専門学校を卒業して大阪帝国大学理学部に助手として採用された。
男ばかりの環境で若く美人顔の春は皆から可愛がられたようである。
戦後大阪帝国大学理学部時代を語るとき、菊池(正士)先生伏見(康治)先生、武田(栄一)先生、竹内(柾)先生などとなっかしそうにそれらの人々の名を口にすることが多かった。
僕のうろ覚えの記憶では菊池研究室にいたのだと思う。
一度ウランの呈色反応のことに話が及んだとき、高温度で反応してでてくるガスがこの世のものと思われないほど美しかったとこうこつとした表情で語った。
キュウリー夫人がちいさなラジウム鉱石を持ち歩いていたのも、発光される色に魅せられたからであろう。
春は助手として実験に従事しながら、原子物理学の講義の聴講生となり諸教授の講義をうけた。
湯川秀樹博士は大阪帝国大学の原爆の研究開発に関与しなかったが、京都帝国大学から大阪帝国大学出張講義に来ていたそうで、春はその湯川秀樹博士の講義にも出席したそうである。湯川秀樹博士は必ず若い和服姿の夫人同伴で来て、夫人も講義中も最後尾の席で湯川秀樹博士の講義を聞いていたそうである。そのことを口にする春の口調は仲のいいは若いロマンテイックな夫妻でうらやましかったといったものであった。
あるとき春が妙なことを口にした。ある時中之島の研究室から帰宅する途中駅でなかなかこない電車を待っているとき、誰かの叫び声と指をさす方向を見るかと西の空に太陽が3個あり、それがぐるぐると回っていたのだそうである。
そして春はそのぐるぐると回る3個の太陽をいっしよにみた人達は終戦までに春以外はすべて死んだと付け加えた。
春は科学者であったにもかかわらずスピリチュアリズムにも傾く傾向があったので、この異常現象とぐるぐると回る3個の太陽をいっしよにみた人達の死を関連して考えてていたと思える。
今ではこの3個の太陽が現れる現象を幻日(英語ではsun dogs )と呼び最近では科学的説明もなされているが、最近まで怪奇、或るいは珍奇現象としてとらえられ、英国のバラ戦争、アメリカの対スー族戦争などの時のように不吉な予兆と考えられたのであろう。
その春の3個の太陽の話がずうっと僕の頭にひっかかかっていた。
春は作り話を口にだすタイプの人でないので、それまで見た人もないし聞いたこともない3個の太陽が現れる現象を信じたし、その現象と人の死が関連していることもありうるのかもしれないと考え、太陽が現れる現象をいっしよに見た人達の死にかかわらず死ななかった春は神に守られたということもあるのかなどという思いにもとらわれた。   
大学時代だと記憶しているがある新聞に3個の太陽が現れたことか゛報道された。その後しばらくニュースに注意したのだが3個の太陽を見た人達が死んだ報道はなかった。
最近湯川秀樹博士がアメリカのスパイだったという説を、かなり目にするが、湯川秀樹博士がアメリカのスパイだったという説は根が深いと考えられる。
海外の原子物理学者とも交流が深かった湯川秀樹博士を軍部は疑惑の目で監視し、そして湯川秀樹博士が戦時中直接原爆の研究開発に従事していないのは軍部の意向だったのであろう。
ある本で原爆の研究開発に従事していた人たちが突如現れたアメリカの戦闘機に掃射され死んだ例がかなりあると書き、湯川秀樹博士のアメリカのスパイ説と関連させようとしていた。
たとえ湯川秀樹博士が日本の原爆研究開発の進展を通報したアメリカのスパイだったとしても、原爆の研究開発に従事していた人たちへの掃射と関連づけるのは馬鹿げている。
湯川秀樹博士が原爆の研究開発に従事していた人たちの行動の子細を把握できる立場でなかったはずである。
湯川秀樹博士が大阪帝国大学への出張講義に夫人同伴で来ていたのは、湯川秀樹博士はいきなり憲兵隊に勾留されたりしたときへの配慮のためだったのかもしれない。
しかし原爆の研究開発に従事していた人たちへの掃射ないし暗殺の件はありえたと思える。
というのは自分以外、すべて終戦までに死んだ春と3個の太陽をいっしよにみた人達というのは原爆の研究開発に従事していた人としか考えられないからである。
もしそうならば日本の原爆研究開発の周りにもかなりアメリカのスパイ網がはりめぐらされていたのであろう。
しかし重要なのは主だった原子物理学者は誰一人死んでいないのである。
つまりアメリカが日本の原爆の研究開発で末端の仕事に従事していた人の暗殺やサボタージュにかかわっていたとすると、アメリカはきわめてデリケートにことを運んでいたことになる。
8月6日に広島に落とされた爆弾が原子爆弾とわかったとき、アメリカの日本の原爆研究の何百倍の規模で行われたマンハッタン計画を知る由もない日本の原爆研究開発関係者達は強い挫折感におそわれたであろう。
アメリカが原子爆弾を落とす地を広島に定めた背景には極めた様々な情報の解析に立った上の政治的軍事的判断で決定されたのは間違いない。
そして日本の降服を想定し占領後放射能の人体への影響を主とした研究体制までととのえていたはずである。
僕の考えではこの原子爆弾投下に日本では空前絶後の社会学的実験も含まれていた。
山代巴が『この世界の片隅で』で、原子爆弾は西日本最大の特殊部落の中心の真上に落とし、アメリカの社会学者たちが原子爆弾で跡形もなくなった特殊部落の地に将来特殊部落が再現するのか、特殊部落が消え去ってしまうのか固唾の目をもって見ていたと書いている。
山代巴はアメリカが原子爆弾投下に社会学的実験も含まれていたとは考えていないようだが、アメリカの社会学者たちがそこまで知っていて注視していたことと、わざわざ西日本最大の特殊部落の中心の真上に落としたことは関連していたと考えざるをえない。
また特殊部落以外の被害をできるだけさけ、主体を特殊部落や人々への被災をもくろんだのは、被災が特殊部落やその人々が主体であれば、日本国内いわゆる一般人からのの反アメリカ、原子爆弾への騒音がすくなくなるという計算も働いたのであろう。
いずれにしろ、精緻な科学、人文研究、工業力などがすべてが統合され戦争の国家政策に反映できた深い河のような当時のアメリカの恐ろしさを知ろうともせず研究もせず、開戦した日本人を精神年齢12歳とマッカーサが評したのも驚くべきことではないのかもしれない。
日本が敗戦となると大阪帝国大学理学部の面々はサイクロトロンの破棄にはじまる原爆の研究開発の証拠隠しに奔走しはじめた。
政府からの潤沢な資金で獲得所持していたで、ウラン鉱、資材、薬品等かなりの量を、原爆の研究開発にたずさわっていなかったとみせかけるレベルに下ければならなかった。
春はもちろん原爆の研究開発の証拠隠しの一環で大阪帝国大学理学部から記録上消えた。
大阪帝国大学理学部の主幹の人々は、アメリカの進駐につぐ、場合によっては自決にも到りかけないくるのが確実の監査に、若い女性の春をまきこむことはしのびなかったのであろう。
 春が言うには戦後しばらくは闇物質を扱う商売していたといっていた。
その商売の末期には奄美大島からの砂糖を扱っていたようだが、僕は大阪帝国大学理学部のウラン鉱、資材、薬品等を闇市に廻すことから始まったのだ思う。
大阪帝国大学理学部の主幹の人々がそれらの物資を横流すことに直接かかわりにくいはずだし、薬品に知識があり、そういうことに度胸がすわっていた春が適任だったと思う。
この大阪帝国大学理学部のウラン鉱、資材、薬品等を闇市に廻すことが終わった時点で春と大阪帝国大学理学部との関係は終った。
原爆の研究開発にかかわった人々すべてに軍の意向でいざという時に秘密保持のための自決用の毒薬渡されていた。
男性達は青酸カリを選んだのだが、春はマチンという毒薬を選んだ。
春の説明によると青酸カリで服毒死すると遺体が青白く変色するそうで、若い女性だった春はそれを嫌い、綺麗なままで死にたいことを望み、死んでも変色したりすることがないマチンを選んだそうである。
春は馬銭とではなく馬丁という字と海賊旗にあるような髑髏と交差した骨のあるラベルがはった黒褐色の毒が入った小瓶を死ぬまで所持していた。
命をかけて懸命にすごした青春の思いでのためであろうし、またいっか使う時があるかもしれないとも思ったからであろう。
その小瓶を最後にみたのは、春の葬式の翌朝のことである。
僕の人生で今でも残る大きな悔いのひとつはその馬丁( マチン )を春の遺品として貰いそこなったたことである。




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