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天武天皇は済州島出身!

1:鹿之助 :

2011/01/08 (Sat) 23:44:51

host:*.plala.or.jp
飯山一郎様、ヤン教授様

本日ヤン教授が「天武天皇は済州島出身!」「飯山一郎の古代史」の内容を記載されましたが、少々長いですが小生の見解を述べますので、コメントしていただければ幸いです。

{天武天皇の和風諡号は「天渟中原瀛真人天皇」.この「瀛」は,当時の常識では「済州島」を指す.たとえば,済州島のことを記した最も古い歴史書は,『瀛州誌』.「瀛」の字が入っている.『日本書紀』も天武天皇の御代になると,『耽羅』に関する記事が異常に多くなる.とにかく,天武天皇と済州島の関係は只事ではない.天武天皇は済州島から渡来された御方である!}
とのことですが、
サムライ氏による「京都皇統」中心の孝明天皇系堀川辰吉郎の子とされる中丸薫氏の著書「古代天皇家と日本正史」を信ずるならば、
天武天皇の和風諡号「天渟中原瀛真人天皇」の「渟中」は高句麗を意味し、「原」は高句麗王の尊称、「瀛」は大海の真ん中にあるという道教の伝説的な三神山の一つの瀛州山であり、「真人」とは道教で悟りを開いた仙人に近い最高の位の人を示すとあります。 
道教ではこの瀛州山は「蓬萊山」「方丈山」とともに三神山の1つであり渤海湾に面した山東半島のはるか東方の島にあるといい、当時の常識では瀛州山は済州島、蓬萊山は日本列島、方丈山は?であり、天武天皇(百済武王の王子・大海人皇子・高句麗の大莫離支;蓋蘇文)の和風諡号に「瀛」があるのは、出身母体の百済660年滅亡、高句麗668年滅亡、663年白村江の戦いなどに済州島を根拠地のひとつとして反唐活動をしたせいではないかと思います。
高句麗滅亡の際に、多くの難民が満州(後裔が渤海建国)、主に東日本地方、済州島などに逃げ、済州島に逃げた高句麗王家の高氏が名家として存続繁栄した場合、その末裔の高英姫を金正日が3番目妻として金正哲、金正雲をもうけ、天武天皇が創立した天皇制を真似た擬似天皇制の高句麗復活の金王朝体制確立を狙っていると思われます。
もし、この仮説が真実ならば、金王朝と日本天皇家は扶余系兄弟王家となります。
但し、たとえば横田早紀江さんが旧皇族の家系出身として、金正日が横田めぐみさんとの間に金正恩をもうけて後継者としても、擬似天皇制の金王朝確立は難しいのではないかと思います。

ところで中大兄皇子(天智天皇)は百済武王のギョウ岐王子で、641年クーデターで武王が殺されて武王妃の宝(皇極・斉明天皇)と妹の間人ら女子4人と共に642年正月に済州島へ島流しになり、643年2月に高句麗の大莫離支・蓋蘇文(武王の王子・大海人皇子・天武天皇)に救出されて来日している。
その後、所謂「大化の改新」で古人大王・蘇我氏を打倒して大和王朝簒奪したのが天智天皇と天武天皇であり、天智天皇の子の白壁王(光仁天皇)と百済・武寧王末裔の高野新笠との子である桓武天皇末裔が現天皇家となっていることから、父方母方ともに百済王朝末裔が現天皇家と言える。
つまり、エフライム族とツングース族から成る扶余(プヨ=フヨ=フル=ヘブル=エフライム)族出身の朱蒙が高句麗建国し、朱蒙の次男温祚によって百済建国とされていることから、高句麗、百済、大和朝廷は扶余系つまりエフライム族の兄弟王国となり、7世紀に高句麗と百済は滅亡したので、日本皇室は北イスラエル王家エフライム族の王統を継いだ唯一の王家と言える。

尚、参考までに、「日本の中のユダヤ文化」久保有政著によれば、日本にエフライム族の北イスラエル王家が渡来して日本の皇室になった説を展開しており、小生もこれに賛同しています。
(1)日本の神話
 日本の神話におけるニニギ尊からウガヤフキアエズ尊、神武天皇に至る系図は、旧約聖書におけるヤコブ、エフライム、ヨシュアに至る系図に物語の骨子が瓜ふたつである。
(2)キルギス人の伝説
 中央アジアのキルギス人に「マナス叙事詩」があり、キルギス人はマナセ族の子孫であることを示している。その伝説によれば、昔ふたりの兄弟がいて、ひとりは山の方へ行ってキルギス人の先祖となり、もうひとりは海の方へ行って日本人の先祖になった、つまり、キルギス人と日本人は兄弟という。「キルギス人と日本人は兄弟だ。昔エニセイ川流域に住んでいた民族が移動した。魚の好きな人たちは東の海へ行って日本人となり、肉の好きな人たちは西の草原へ行ってキルギス人となった。だから、キルギス人と日本人は兄弟だ。」と言われるとのことである。
この伝説は日本にある「山幸彦・海幸彦」によく似ており、双方の起源は同じで、両民族の先祖は繋がっている。 ヨセフの息子はマナセとエフライムであり、キルギス人がマナセの子孫ならば、そこから分かれた日本人の先祖となった兄弟はエフライムであり、エフライム族が日本にやってきたことになる。
キルギスタンは中央アジアで一番歴史的に古く、紀元前201年にはキルギスという民族がいて、移動して来たと言われています。モンゴルにはキルギス人の祖先が住んでいました。
 5世紀頃にはモンゴル北部・バイカル湖西部に契骨・結骨(キルギス)があるから、現在のキルギス人は西に移動してきたことがわかる。そして、その国の始まりは紀元前3世紀までは遡れそうなのである。
 彼らは騎馬民族であるが、騎馬民族といっても遊牧もしていたようで、少し前は「夏には羊を太らせるため山へ連れていき、冬になったら乾し草を与えながら ふもとで生活」していたらしい。また、「系図としては、娘は家系に入れず、息子だけ家系に入れるという」から、男系文化をもっている。
(3)神武天皇の正式名
 神武天皇の和風諡号「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト」であるが、これはヘブル・アラム語でその意味は、「サマリアの王、ヤハウエのヘブル民族の高尚な創設者」あるいは「ヤマトの創始者はヘブル人であり、その王国サマリアから渡来した」である。サマリアとは北イスラエル王国のことで、サマリアの王とはエフライム族の王家である。つまり、日本の皇室はエフライム族の王統を継いだものということになる。
(4)ユニコーン
ユニコーンは頭に角がひとつある動物で、架空の動物、想像上の動物だが、日本の皇室に古くから伝わっている。京都御所の清涼殿にある天皇の座の前には獅子とユニコーンの像があり、天皇の即位式に使われる高御座にもユニコーンのデザインがある。
また、昔天皇が使った王冠にもユニコーンの図柄があった。
日本の神社には入り口の左右に狛犬があり、今は左右両方とも「狛犬」と呼んでいるが、本来は右側を「獅子」、左側を「狛犬」、すなわち「獅子とユニコーン」である。
ユニコーンの起源は古代イスラエルにあり、もともとエフライム族とマナセ族が属するヨセフ族の紋章、シンボルだったのである。
神社の狛犬は必ず「阿吽」の形になっており、一方は口を開け「阿」、一方は口を閉じている「吽」。この阿吽は、元来へブル語やギリシア語の「アーメン」の意味である。
また阿吽は、日本語の「あ」「ん」に相当し、最初と最後の文字である。
神社の狛犬のうち、「あ、阿」は獅子(ユダ族)であり、「ん、吽」はユニコーン(エフライム族)で、歴史はユダ族に始まり、エフライム族の回復によって終結するので、終わりの日に両族はひとつとなる。 
(5)万世一系の天皇家は世界で最も長く続いている王家
聖書預言によれば、今もエフライム王室が古代から絶えることなく世界のどこかで存在していることであり、それに当てはまるのは日本の皇室しかない。

以上の2つの著書その他の情報は小生の仮説をバックアップするもので概略を示すと、
●イスラエルにある、失われたイスラエル十部族の調査機関”アミシャブ”によると、BC 721年に新アッシリアによって捕囚とされた北イスラエル十部族の民は、一部はトルコ東部のクルディスタン(ペルシャ北部のメディヤの諸都市)に、一部は現在のアフガニスタン北部のアム・ダリア川沿いのハラトやハボル(ペシャワ-ル)などにいたとされる。 
●BC 605年のアッシリア捕囚開放後には、一部はその地にとどまり、残りはクリミヤ半島にしばらくガド族、ルベン族、マナセの半部(エフライム)族が住み、その後に騎馬民族スキタイとともに東への移動を開始し、シルクロードの北方の草原ルートを通り、カスピ海とアラル海の北側を渡り、天山山脈北方のバルハシ湖周辺の弓月地方に移住した(1932年「日本人とは誰か」オドルム教授)。天山山脈北方のバルハシ湖周辺のキルギス人(マナセ族の後裔)の伝承(マナス叙事詩)に、弟分のエフライム族が更に東方へ移住したとある。
●このエフライム族を中心とするイスラエル部族が満州の地にBC1~2世紀ころに「扶余」の牧畜騎馬民族王国を建国した。
 その初代ヘブル王はヘブライ人の意味であり、扶余王家出身の朱蒙が始祖の高句麗、朱蒙の次男温祚が始祖の百済は兄弟王国であり、更に、朱蒙の長男の沸流(フル)一族が弁韓(任那)・秦韓(新羅)地方を経由して出雲に渡来し、沸流の子孫のスサノオ尊(フツシ)が出雲王国を建国し、スサノオ尊の五男のニギハヤヒ尊(フル)が奈良地方に日の本王国・大和王国を建国し、そこに邪馬台国女王卑弥呼の孫の神武天皇が婿入りしてAD241年2月11日に大和朝廷が成立した。
●これにより、高句麗、百済、大和朝廷は扶余族つまりエフライム族末裔の兄弟王国となり、7世紀に高句麗と百済は滅亡したので、 日本の皇室は北イスラエル王家エフライム族の王統を継いだ唯一の王家である。
●「聖書においては万世一系の王族はユダ族から出るものと決っており、エフライム王室というコンセプトや、他の部族による王系の継承という話は受け入れがたい。」とあるが、古代イスラエル王国はソロモン王の死後、エフライム族を中心とする諸部族からなるイスラエル王国(北王国ともいう)とユダ族が建てたユダ王国(南王国ともいう)に分裂したが、北朝正統論の立場でいうと、北王国が正統なのは実は議論するまでもなく明白なのです。
仮に聖書の記述を信ずるならば、イスラエル=ヤコブの嫡子ヨセフの嫡子エフライムと続く正系、嫡流が聖書に明記されているから。 だからこそ北王国が「イスラエル」と呼ばれたのです。
 ユダ王国などは建て前上、反乱勢力にすぎない。失われた10部族=北王国の方が正統であり、この「失われた10部族」が揃わない限り南王国の子孫にすぎないユダヤ人が「イスラエル」を自称することは本来間違がっていると言われている。
そして、日本皇室がエフライム族の王統を継いだものであれば、日本こそ「イスラエル」の国名を名乗るべきかと思います。
尚、現在のイスラエルは、主に東ヨーロッパ、ロシアにいたアシュケナージユダヤ人(カスピ海沿岸にあったハザール国の改宗ユダヤ人がモンゴルに追われてヨーロッパに逃げた偽ユダヤ人で古代ユダヤ人と無関係である)が同じアシュケナージユダヤ人の国際金融資本ロスチャイルドにバックアップされて建国された偽イスラエルである。
6:サムライ:

2011/01/10 (Mon) 04:54:39

host:*.t-com.ne.jp
鹿之助様

お約束ですので、早速許された時間内で以下を纏めてみました。御笑読ください。


サムライ拝



最初に、帝国電網省というサイトで、大室寅之祐をいろいろと書いており、かつ、恥ずかしながら、愚生も同様の愚見をブログで述べたことがあります。
http://pro.cocolog-tcom.com/edu/2005/09/post_fee8.html
明治天皇(1)
http://pro.cocolog-tcom.com/edu/2005/09/post_5c5b.html
明治天皇(2)

実は、帝国電網省や小生のブログに限らず、ネット世界で噂されている「明治天皇=大室寅之祐」説は、基本的に鹿島昇の著した『裏切られた三人の天皇 明治維新の謎』(新国民社)がネタ元になっています。そして、同書の主張は「大室に入れ替わる前の明治天皇は伊藤博文に暗殺された」というものですが、それに対して初めて真っ向から反対意見を述べたのが、昨年の7月に落合氏が本邦で初めて明らかにした、「孝明帝は暗殺されたのではなく、お隠れになった」説ではないかと思います。落合説を基に、その人のインテリジェンスを働かせて、世に出ていない、あるいは出せない裏の事実を、どのように見抜くかは、偏にその人のインテリジェンスパワーにかかっていると云っても、過言ではないと思います。

ともあれ、私は世の中の真実を知りたいと切望する一人の修行僧に過ぎず、今後も皆様に色々と教わりながら、己れなりの真実を見抜く眼を身に付けていきたいと願っております。

なお、蛇足ながら、現在そして将来において、世界はどう動くかの答えは、全て『古事記』(ふることふみ)の上巻(かみつまき)に書いてあるとは、実際に交流させていだたいている、皇統奉公衆の一人からのお話です。小生も直接古事記を教わって2年近く、漸く件の皇統奉公衆の云う言葉に、嘘はないと確信できるようになった今日この頃です。小生が得た古事記論は、今後も折ある毎にブログに公開していきたいと思います。
http://pro.cocolog-tcom.com/edu/cat21573264/



以上
5:鹿之助 :

2011/01/09 (Sun) 17:00:34

host:*.plala.or.jp
サムライ様

ご多忙の折り、無理な質問をして申し訳ありません。
ご指摘のように情報とインテリジェンスは違うのは当然ですが、いろいろな情報を収集し分析することでインテリジェンスに昇格するわけで、この時事放談も多くの投稿(情報)から目的のヒントを掴みインテリジェンスを嗅ぎ分けるのが面白いわけです。

一般的に小生のように日本史に興味を持つ人が、サムライさん作成の「皇室インナーサークル図」や落合莞爾氏の読書日記の「堀川辰吉郎は孝明天皇の世に隠れた直系で、遡れば孝明→仁孝→光格と三代の天皇が続く閑院宮系皇統の直系である公認史実と異なる事実」に触れると、どうしても疑問に思うことを今回質問してみたのですが、到底公の場で答えることが出来ないことが多々あるとのコメントには当然なことで納得しています。
今回の質問の「公認史実と異なる事実」等は日本の歴史、社会がひっくり返る大事件ですが、小生のような素人がその丸秘情報(インテリジェンス)を入手してもあまり意味がないので、今後お時間が取れた時点で、本スレッドを使って支障の無い範囲の客観的事実によるお答えを期待しています。

今後とも参考になる情報開示をよろしくお願いします。


鹿之助拝
4:サムライ:

2011/01/09 (Sun) 15:44:20

host:*.t-com.ne.jp
鹿之助様

熱心なお問い合わせ、有り難うございました。出来れば、一つ一つお答えしたいところですが、生憎当面は本業(産業翻訳)に追われている身であり、今後時間が取れた時点で、本スレッドを使って支障の無い範囲でお答えしていきたいとは思います。ただし、サーッと読む限り、小生も知らないこと、あるいは知っていても到底公の場では、お答えすることが出来ないご質問が多々あります。そうしたご質問は一切ノーコメントにさせていただきますが、どうしても知りたいというのであれば、飯山さんを通じて小生にメールをください。飯山さんは愚生のメールアドレスや本名などを知っています。そして、お知りになりたいことを直接に皇統奉公衆の栗原茂氏、あるいは『月刊日本』の山浦嘉久氏などに会い、お尋ねください。場所は東京都内であり、歓迎いたします。

以上、宜しくお願いいたします。

サムライ拝
3:鹿之助 :

2011/01/09 (Sun) 12:16:44

host:*.plala.or.jp
サムライ様

さっそくのコメントありがとうございます。
サムライさんの皇室インナーサークル等の投稿には刺激的なことが多く、また落合莞爾氏の読書日記などの有益なブログを紹介していただき、お礼を申します。
ところで天童竺丸著『憎悪の呪縛 一神教とユダヤ人の起源』は今手元になく、サムライさんのブログを拝見しましたが、小生の一神教と多神教の知見はウイキペディアレベルしかありません。
しかし昨日の投稿で、「エフライム族の王家が来て日本の皇室になった理由」で述べませんでしたが、下記情報のように日本が多神教の理由は、ヨセフとヘリオポリスの祭司の娘アセナテとの間の子供であるマナセとエフライムはエジプト王家の血と太陽崇拝信仰を継承している可能性があり、この為に分離した北朝イスラエル王国では偶像崇拝が行われ、エフライム族による古代日本では太陽崇拝が行われたのかもしれないという説に賛同しています。
そして、男系継承のY染色体D2を持ち、なおかつ、ユダヤ文化の独自性を持った大きなグループが、短期間で東の方へ移動して、朝鮮半島から日本に入って住みついた形跡があり、イスラエル12部族のうちのエフライムとマナセだけがYAPなどの挿入部をもつD系統であることから、その大きなグループはエフライムとマナセであるという説に賛同しています。

以下の情報は、「神のホームページ」 DNA調査ポイントの青写真 を参照して下さい。
http://www.k2.dion.ne.jp/~yohane/index.html
ヨセフに対する兄たちの妬みがこうじて憎しみとなり、ヨセフは彼らに奴隷として売り飛ばされ、独りエジプトに住むこととなった。
 そこでヨセフは、奴隷の身分から身を起こして、一時期は無実の罪のゆえに囚人ともされたのであるが、それがかえって神の恵みの計画によるものであったので、ついにはエジプトの宰相となったのである。 (一説によると、ヨセフの時代のエジプト王朝はレバノン方面から侵入してきたイスラエルと同じアラム系のヒクソス人による第15と第16王朝だったので、そのことはヨセフに有利にはたらいたようである。ちなみにエジプト最後のプテレマイオス王朝も外国人であるギリシアによるものであった)。 
 エジプトの王パロは、ヘリオポリス神殿の祭司長の娘アセナテを宰相となったヨセフの妻として与えた。エジプトに限らず、古代では、祭司は王でもあることが多く、または王と共に国を治める最高権力者でもあった。ヨセフとその太陽神の祭司の娘との間に生まれた二人の兄弟のうち、兄はマナセで弟の方がエフライムである。このエフライムの子孫が大きい部族となり、北朝イスラエルを代表する王国となった。 このために、ヨセフとヘリオポリスの祭司の娘アセナテとの間の子供であるマナセとエフライムはエジプト王家の血と太陽崇拝信仰を継承している可能性がある。  この為に分離した北朝イスラエル王国では偶像崇拝が行われ、エフライム族による古代日本では太陽崇拝が行われたのかもしれない。
セム系ヨセフとハム系エジプトの祭司ポティ・フェラの娘アセナテと結婚して生まれたエフライムとマナセの場合に、YAP+という、DE*、D、E系統を特徴付ける塩基配列がヨセフの妻(ハム系)のX染色体のどこかに隠れて存在していたならば、それが受精の時に、ヨセフ(セム系)のY染色体のDNAの中に”挿入型”突然変異として入り、息子(マナセ、エフライム)のY染色体DNAはD系統に変化し、ここからD系統がスタートしたと思われる。
つまり、イスラエル12部族のうちのエフライムとマナセだけがY染色体のDNAにYAP+などの挿入部をもつD系統であり、日本人男性の40~50%がD系統を持ち、日本人の宗家である日本皇室が、エフライム族の古代北イスラエル王国再興と、ヤコブ(イスラエル)~アブラハム~ノア~アダム・イブにつながる、正に万世一系の皇統の証拠として、神様がこの特別な変異のしるしをエフライムとマナセだけに与えたのではないだろうか?の説があり、小生は大いに賛同する次第です。そして日本人は大和(ヤマト)民族、つまりヘブライ語で「ヤ・ウマト=神の民」の自覚をするべきではないでしょうか?
その意味で、アインシュタインの名言が蘇ります。正に蘇民将来!

アルバート・アインシュタインの名言
※(アルバート・アインシュタインが大正11年11月16日から40日間にわたり、日本滞在中に書き残した手記)

近代日本の発達ほど世界を驚かしたものはない。
世界は進むだけ進んでその間、幾度も闘争が繰り返された。
最後に闘争に疲れる時が来るだろう。
そのとき人類は、誠の平和を求めて「世界の盟主」を上げねばならない時が来るに違いない。
この「世界の盟主」になる者は、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を超越した最も古く、また、尊い家柄でなくてはない。
『日本の御皇室』のように。
世界の文化は、アジアに始まってアジアに帰り、
それは、中国や韓国でなく、アジアの高峰である『日本』に立ち戻らなければならない。
われわれは、神に心から感謝する。
天が我々人類に『日本』という尊い国を作っておいて下さったことを・・・・

戦前、駐日大使を務めたフランス人、ポール・クローデル(詩人、劇作家であり思想人でもあった)は、日本の敗色が濃くなりつつあった1943年に、日本民族に対する評価を以下のように友人に伝えています。
「私が断じて滅びない事を願う一つの国民がある。それは日本人だ。あれ程興味ある太古からの文明は消滅させてはならない。日本人は驚くべき発展をしたが、それは当然で、他のいかなる国民にもこれ程の資格はない。
彼等は貧乏だ。しかし高貴だ。あんなに人口が多いのに…。」

●「DNAが解き明かす日本人の系譜」、崎谷満、勉誠出版、2005 8 によると、
Y染色多型体の分析による最新の結果では、旧石器時代(?)にシベリア経由で北海道に来たC3系統、縄文時代(?)に華北・朝鮮半島経由で来たD2系統、弥生時代に同じく華北・朝鮮半島経由で来たO2b、O3系統が、(沖縄を含む)日本列島のヒト集団を形成し、南方から沖縄経由で来た痕跡はごくわずかである。
 アフリカ(?)をあとにして広がった人類は大きく3つのグループに分かれたが、日本列島にはその3つのグループのすべてが集まっていて、これは全世界的に見て他に類の無い特徴である”、とある。
・・・・・ ヨセフは、エジプトの祭司ポティ・フェラの娘アセナテと結婚してエフライムとマナセが生まれた。(創41:50) Y遺伝子は父系遺伝する。 したがって、日本人男性には、一般の東アジア系(ヤペテ系:縄文系+弥生系といわれたグループ)に、ヨセフのユダヤ系(セム系)とエジプト人(ハム系)のDNAが入っていることとよく合っている。

●マナセ、エフライムが特別なD2系統であるという説は捨てがたい。
状況としては、D、E系統は昔、共通祖先から分岐したはずであるにもかかわらず、現在はアジアの東西に偏極し、地理的にD、Eが同時に存在して重なる地域がない。(ウズベキスタンにはわずかに両方あるがキルギスのマナセ族のせいか) しかし、D2の多い日本本土・琉球とチベット近辺にのみ、それぞれエフライム、マナセとしての古代ユダヤの伝統が受け継がれている。さらに、日本、チベット、東アジアには、ユダヤ性を伝えたと考えられるセム系らしい系統(F、G、H、I、J)が全く存在しない。 したがって、D2を持ち、なおかつ、ユダヤ文化の独自性を持った大きなグループが、短期間で東の方へ移動して、朝鮮半島から日本に入って住みついた、としか考えようがない。
系統の分岐はDNA配列の突然変異によって出来、しかも、DE*祖型からDとEへの分岐はかなり昔の段階にある。(DE*祖型はナイジェリアに存在するらしいことが5例報告されている)
 すると、12部族のうちのエフライムとマナセだけがYAPなどの挿入部をもつD系統であることから、ミトコンドリアDNAの結果の考察と同様に、集団ではなく昔の個人、すなわち、エジプト人であるヨセフの妻のDNAが突然変異したことが考えられる。では、どのようにして突然変異したのだろうか?
精子(XY)と卵子(XX)が受精する時に起こりやすい突然変異を考える。
一つのDNA塩基が別の塩基に変化する”置換型”突然変異よりも、すでに存在するDNA配列の”挿入”や”不等交叉”の突然変異の方がはるかに起こりやすい。たとえば、色覚異常について、X染色体上の赤オプシンと緑オプシンの遺伝子は近接して位置しており、DNAの配列も似ている。(”遺伝子重複”によって作られたと思われる) これらの遺伝子は時々混じり合い(不等交叉)、遺伝子の配列がモザイク状になって、色覚異常を引き起こす。
 もし、YAP+という、DE*、D、E系統を特徴付ける塩基配列がヨセフの妻(ハム系)のX染色体のどこかに隠れて存在していたならば、それが受精の時に、ヨセフ(セム系)のY染色体のDNAの中に”挿入型”突然変異として入り、息子(マナセ、エフライム)のY染色体DNAはD系統に変化してしまった(ここから、D系統がスタートした)と考えられる。

XY(ヨセフ) + XX(YAP)(DE*:アセナテ) → XYYAP(D:マナセ、エフライム)

現在、エフライムを自称する民族は多いので、神様は、この特別な変異のしるしを エフライムとマナセだけに与えたのではないだろうか?
 このような特別な遺伝をした場合、アセナテからのハム系の遺伝子が入ったのは1回きりだから、一般形質としてはセム系の形質がある程度は残っていると考えられる。(・彫りの深い顔、・毛深い、・長い手足、・低い身長 ・・・ cf.ハム系のカナン人は背が高かった(民13:32-33))

ところで、サムライさんのブログに「フルベッキ写真」があり、サムライさん作成の皇室インナーサークル相関図の「京都皇統」について質問があります。

(1)「フルベッキ写真」は明治2年、長崎の写真家 上野彦馬の写場で撮影されたもので、フルベッキが東京に移る際に長崎で教えていた英語塾の学生達との送別の時に写された記念写真で、その上野彦馬が撮った「英語塾「敬遠館」の若者たち」という写真に後世の人が適当に名前を書き入れた説があります。
小生は写真中の西郷隆盛は弟の西郷従道や従兄弟の大山巌と似ておらず、また勝海舟も大久保利通も坂本龍馬も桂小五郎も本物に似ていないと思います。
ご承知かと思いますが、この写真で注目の人物はフルベッキとウイリアム傍下の刀持った白い着物姿の「明治天皇と言われる大室寅之祐」で、「北朝」系の孝明天皇・睦仁親王に代わって、「南朝」系の明治天皇(大室寅之祐)がすり替え即位する明治維新とは、実は「王朝交替」クーデター説があります。
但し、この写真の「大室寅之祐」は小柄であり、体重24貫(約90Kg)の巨漢で側近の者と相撲を
して相手を投げ飛ばし、威風堂々馬上から近衛兵を閲兵し、自ら大声で号令したと言う即位後の
明治天皇とは違うのではないかと思います。 そして、この「南朝」系の明治天皇(大室寅之祐)
は山口県田布施町の地家作蔵の息子寅吉と言う説があり、そもそも大室家が光良親王(1400~)
から23代500年も継続している南朝系皇統かどうかあやしい点もあります。
この点についてのご見解をお願いします。

帝国電網省 歴史再考 http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/index.html
20.「明治天皇」は暗殺されていた!! 南北朝秘史-其の肆- (1998.1.4)

即位前(睦仁親王時代) 即位後(明治天皇時代)
睦仁親王は疱瘡(天然痘)をわずらった。疱瘡の後遺症として、顔面に「あばた」が残った。 明治天皇の「御真影」(これは「写真」ではなく、キヨソーネが描いた「肖像画」)に描かれた顔に「あばた」は無い。又、実際の顔にも「あばた」は無かった。
元治元年(1864)年7月の「禁門の変」の際、砲声と女官達の悲鳴に驚いた睦仁親王(当時13才)は、「失神」した。 明治天皇は威風堂々、馬上から近衛兵を閲兵し、自ら大声で号令した。
睦仁親王は幼少より「虚弱体質」で、毎年風邪をこじらせていた。又、16才になっても、宮中で女官と一緒に「遊戯」にいそしんでいた。 体重24貫(約90Kg)の巨漢で、側近の者と相撲をし、相手を投げ飛ばしたと言う。
睦仁親王は16才になっても、書は「金釘流」、つまりは「下手」であった。又、政務にも無関心であった。 明治天皇は、書が「達筆」であった。又、学問にも熱心であり、教養豊かであった。
即位前の睦仁親王に、「乗馬」の記録は残っていない。つまり、馬には乗れなかった。 明治天皇は、鳥羽伏見の戦の際、馬上豊かに閲兵した。

「三浦皇統家」記録明記の南朝系図
       ┌義良親王(後村上天皇)・・・・・・・・・・熊沢天皇
(96)後醍醐天皇┼尊良親王─(97)興国天皇─小室門院
       │              ┠──(99)松良天皇┬(100)大宝天皇
       └(98)宗良親王─興国天皇(小松天皇)      └光良親王・・・(173)大室寅之祐

つまり、「北朝」系の孝明天皇・睦仁親王に代わって、「南朝」系の明治天皇(大室寅之祐)が即位する明治維新とは、実は「王朝交替」だった訳です。だからこそ、孝明天皇(北朝)の「忠臣」だった徳川将軍家や会津松平家が、明治天皇(南朝)にとっては「逆賊」となってしまったのです。これを裏付ける「証拠」が「皇統譜」(皇室系図)に載っています。

     昭憲皇太后
       ┃
孝明天皇─明治天皇
       ┠──大正天皇
     柳原愛子

上の系図を見ての通り、明治天皇の正妻は「昭憲皇太后」です。この名前にキーワードが隠されているのです。天皇の后妃ならば、本来、「皇后」と付けるべきです。つまり、この場合、「昭憲皇后」と言う訳です。しかし、実際には「天皇の母」や「先帝の后妃」に付けられる「皇太后」の尊称が付けられています。
明治新政府が「王朝交替」を秘匿した事、その王朝交替が、孝明天皇・睦仁親王父子「暗殺」と、明治天皇「すり替え」と言う姑息な手段によって実現した結果、日本最大の動乱-戊辰戦争を引き起こしてしまったのです。そして、戊辰戦争自体も「南北朝争乱」の一つの産物だったのです。

160.足利簒奪、南朝革命、それでも「万世一系」は成立する ── 男系皇位継承の奇跡(2006.1.15)
今回、読者の方から、
 「伏見宮系の旧皇族に皇位を継承させた場合、維新時に正統の南朝系に戻された皇統が、再び足利義満の子孫に渡ることになり、甚(はなは)だ不都合であると思います。維新時に行われたように、(困難であっても)再び南朝の御子孫を探し出して皇位を継承して頂かなければ、我々も後世に「逆賊足利義満の子孫に皇位を簒奪(さんだつ)させ、皇統を廃絶させた朝敵」と呼ばれることにならぬものか、大変懼(おそ)れます。」とのコメントを頂きました。
とありますが、この読者は小生のことです。

(2)ヒロさん日記「大本教の系譜:中丸薫と堀川辰吉郎の誇大妄想革命」によれば、
堀川辰吉郎って人は、生涯、日本じゅうに数え切れない女をつくって、子供を生ませて、父親の責務をまったく果たさなかったと、昭和二十年代の関係新聞記事や雑誌インタビューに書いてありました。手元にある資料「天皇の伝説」(メディアワークス・1997年)P74-75には、こんなことがマンガの形で面白おかしく書いてあります。 
★中丸薫の手記によれば、「祖母の権典侍(ごんのてんじ:天皇のお付きの女官) 千草任子(ちぐさ・ことこ)」が大奥の争いに敗れて宮廷を追われ、京都堀川御所で生んだのが、父・堀川辰吉郎。それで、辰吉郎が20歳の時、千草任子は病没したといいます。
ところが、千草任子に関する事実はこうです。
1. 名前は「千種」任子であって、「千草」任子ではない。
2. 宮廷を追われたという事実はなく、69歳になるまでお仕えしていた。
3. その後、お仕えを辞めて移ったのは京都の堀川御所ではなく東京は新宿区砂土原町。
4. 辰吉郎20歳のとき病没したというが、それが本当なら任子は43歳で亡くなったことになる(辰吉郎は明治10年生まれ)。しかし、実際には88歳の長寿を保って亡くなっている(報道や墓地で確認済)。
*「千種任子は昭和19年、89歳で死去。(中略)明治天皇が逝ってから、千種任子は三十数年を一人生きざるを得なかった。まさに<未亡人>のひっそりとした暮らしであったろう。自分で生んだけれども育たなかった皇女たちのことなど、どんな想いがその胸に去来していただろう。千駄木林町の千種邸のあとは、今も国有地である(後略)」
 つまり、千種任子が「ご落胤(らくいん)」として堀川辰吉郎を生んだなんていうのは「フィクション」であろうということです。当時の皇室の状況からして、なかなか皇子様がお生まれにならなかったのですから、「御落胤」あつかいなどされるわけがありません。

以上とは違って、落合莞爾氏の読書日記の「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(43)-1」の「孝明天皇-堀川氏-玄洋社 京都に秘匿された皇統勢力」の堀川辰吉郎は全く違った正に国士たるイメージがあります。 そして読書日記「疑史 第68回 ★清朝宝物の運命」を読むと東アジアの真の歴史が垣間見れるようで戦慄させ覚えます。

ところで、落合莞爾氏の読書日記によれば、堀川辰吉郎は孝明天皇の世に隠れた直系で、遡れば孝明→仁孝→光格と三代の天皇が続く閑院宮系皇統の直系であるとして、ともかく公認史実と異なる事実は、①孝明帝は慶応二年には崩御されず、維新後も御生存。 ②孝明帝の御子は、維新後も生きて堀川御所に住んだ ③和宮は明治十年には薨去されず、その後も御生存。 ④家茂も慶応二年には薨去していない。 以上が真相ということであるが、これには和宮の家茂への降嫁と東京遷都が深く関係しているらしい。

とのことですが、以下の質問があるのでご回答をお願いします。

①この公認史実と異なる事実の客観的な証拠はあるのですか? なぜ隠す必要があるのですか?

②家茂と和宮の墓は芝、増上寺内の徳川家の墓所にありますが、これはウソですか?
 和宮とその夫の徳川家茂のお墓は、芝、増上寺内の徳川家の墓所にあります。また墓地改葬の際に、和宮の墓の中から家茂と思われる男性の肖像写真が発見された。 これまで家茂は義兄の孝明天皇に倣い写真は撮影していなかったと思われていた。この写真は死の直前に大坂で撮影され、江戸にいる和宮に贈られたものとみられる。

②堀川辰吉郎は明治10年生まれであり、孝明天皇は暗殺されずに生きて堀川辰吉郎をもうけたのですか?

③なぜ別系統の「京都皇統」を形成する必要があるのですか? 
「南朝」系の明治天皇(大室寅之祐)の東京皇室に対して、「北朝」系の皇統を維持するためですか? また、明治維新の動乱で、再び「南北朝対立」が始まったのですか?

④堀川辰吉郎の後継者は誰ですか? つまり、「京都皇統」は継続していますか?

⑤もしも東京皇室の男系が途絶えたら、「京都皇統」の男系後継者が皇室を継承するのですか?
2:サムライ:

2011/01/09 (Sun) 04:31:38

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鹿之助様

はじめまして。鹿之助さんの精力的且つ貴重な書き込みに、いつも刺激を受けているサムライです。愚生の名前が出ましたので、ここで簡単に一言述べさせていただきます。

鹿之助さんの「日本にエフライム族の北イスラエル王家が渡来して日本の皇室になった説を展開しており、小生もこれに賛同しています」という行、3年前までは小生も「諸手を挙げて賛成」とまではいかなくても、そうした説も有り得るかも…と思っていました。しかし、皇統奉公衆の栗原茂氏らの話の他、落合莞爾氏の諸記事、文明地勢学協会の天童竺丸氏の著した『憎悪の呪縛 一神教とユダヤ人の起源』などを一読後は、自身の“ユダヤ観”を叩き壊し、現在は再構築中です。詳細は拙ブログに書きましたので参照してください。
http://pro.cocolog-tcom.com/edu/2010/08/post-ed8b.html

なお、生業(産業翻)の仕事を抱えているため、当面は詳しく現時点における愚見を述べる時間的な余裕が無いので割愛させていただきます。

皆様の今後の投稿、楽しみにしております。


サムライ拝

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