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鹿之助さん 遷都、都(ミヤコ)を移転しましょう!

1:飯山一郎 :

2011/01/10 (Mon) 19:02:11

host:*.bbtec.net
われわれの文章は、黄河か揚子江か、木曽の杉の木だ…、
つまり、長杉(=長過ぎ)。
ほかのシトから「読みづらい!」と文句がきてる。当然です。
だから遷都。移転先は客のいない掲示板で、名前は…、
『ゲストブック=なんちゃら・かんちゃら』です。
URLは、↓です。
http://joren.bbs.fc2.com/
議論は、ここ↑で、やりましょう。
「呪」なんて文字がないから気持ちEです (笑)

                       飯山 一郎
7:鹿之助 :

2011/01/17 (Mon) 22:12:32

host:*.plala.or.jp
飯山一郎様

突然のご質問だったので少々遅くなりましたが、ご質問に答えます。

(1)天智・天武天皇はどのような経路で日本列島に入ってきたと思いますか?

⇒ 「京都皇統」中心の孝明天皇系堀川辰吉郎の子とされる中丸薫氏の著書「古代天皇家と日本正史」を信ずるならば、中大兄皇子(天智天皇)は百済武王のギョウ岐王子で、641年クーデターで武王(架空の舒明天皇)が殺されて武王妃の宝(皇極・斉明天皇)と妹の間人ら女子4人と共に642年正月に済州島へ島流しになり、643年2月に高句麗の大莫離支・蓋蘇文(武王の王子・大海人皇子・天武天皇)に救出されて来日している。 このときの来日ルートが済州島~玄界灘~瀬戸内海か、済州島~南九州廻り~瀬戸内海なのか不明です。
その後、645年の所謂「大化の改新」で古人大王・蘇我氏を打倒して飛鳥王朝簒奪したのが天智天皇と天武天皇であるとしています。
この来日当時、天武天皇はまだ九州王朝(倭国)が支配していた九州南部には行かれていないと思いますが、九州王朝(倭国)滅亡後には行かれた可能性があり、日本書紀は飯山さんがよくご存知のようなのでその記録があるかもしれません。

(2)「この旅で奈良にある柏原神宮の名前由来は、神武天皇が志布志湾岸東串良の柏原に吾平津姫と娘の豊受姫と3人でお住まいになっていたからの説に納得できました」
と書いてます。これは神武天皇の大隅での実在! を信じて言ったことですか?

⇒ 「古代/上代日本正史」原田常治著によれば、邪馬台国女王日霊女貴尊(卑弥呼)の末子相続人ウガヤフキアエズ尊が大隈半島の穀物が豊かに取れる吾平平野に住まわれ、その末子相続人である若い神武天皇が両親の住居に近い志布志湾の東串良、柏原に住まわれていたが、出雲大和王朝相続人イスケヨリ姫に婿入りすることが決定したので、この柏原から邪馬台国女王日霊女貴尊(卑弥呼)へ別れの挨拶に出発されたのでここに御東遷の記念碑がありますが、邪馬台国女王日霊女貴尊(卑弥呼)その他の親族への別れの挨拶後に、実際に大和へ出発された御東遷の出航地が延岡と都農の間の美々津浜のようです。 そして241年2月11日(紀元節)の婿入りにより、日向王朝と出雲大和王朝の統合による大和朝廷成立としています。

(3)「唐仁古墳」から6kmほど北東の「横瀬古墳」(壮大な前方後円墳)には行かれましたか?それから、「唐仁古墳」から4kmほど南西の「塚崎古墳」は御覧になりましたか?

⇒ 当時(約10年前)はあまり古墳に興味がなくまた時間もなかったので、唐仁古墳しか行っていません。しかしその後は、前方後円墳が「鍵穴」形状で、逆さにするとユダヤの宝「マナの壺」に似ており、これは失なわれたイスラエル十支族のガド族が渡来した証拠との説があり、興味を持っています。

(4)「唐仁古墳」「横瀬古墳」塚崎古墳」の3つ古墳群を結び繋ぐと、その先に「西都原古墳」、さらに…、その先には「厳島神社」、その先には「出雲大社」が、一直線上に並ぶのです。この意味は、分かりますか?

⇒ 西都原古墳群には男狭穂塚(邪馬台国女王大日霊女貴尊;卑弥呼;天照大神)と女狭穂塚(邪馬台国2代女王豊与;伊勢神宮外宮の豊受大神)、厳島神社にはスサノオ尊と大日霊女貴尊との末娘狭依姫(厳島姫)が祭られ、出雲大社にはスサノオ尊の娘婿の大国主命が祭られていますが、この3つの古墳群の被葬者が誰なのか不明となっているので、一直線の意味が分かりません。 ひょっとしたら、この3つの古墳群はヒコホホデミ尊妃の豊玉姫とウガヤフキアエズ尊妃の玉依姫、それにその父親で南薩摩を治めていた豊玉彦とその一族の墓かもしれませんね。

(5)鹿之助さんが以上のように表現された「邪馬台国と天皇家の関係」は、いったい何を、どんな文献を論拠にしておられるのですか? そして、鹿之助さんは、神武天皇や邪馬台国の卑弥呼女王が九州南部に実在していた! と本当に信じているのですか?
1.「神武天皇は…、西都の祖母邪馬台国卑弥呼女王(大日霊女貴尊;
  天照大神)に挨拶され…、」
2.「天皇家のご先祖の邪馬台国(日向王朝)は、薩摩半島、大隈半島、
  それに本拠地の高千穂・西都地域が領地、つまり宮崎県、鹿児島県

⇒ 以前紹介しましたが、日本書紀・古事記成立以前に創建された由緒ある神社(大神神社、熊野大社、大山祇神社等)に祭られているご祭神を明らかにして古代日本の実像を明らかにした神社考証学の泰斗である「古代/上代日本正史」原田常治著(同志社・発売婦人生活社(倒産))その他の書物と比較的信頼できるネット情報がネタ元で、神武天皇や邪馬台国の卑弥呼女王が九州南部(宮崎県、鹿児島県)に実在していた! 信じています。

(6)以上のことと、鹿之助さんの持論、「日本書紀の天智・天武天皇以前の歴史は信用できない!」は矛盾しませんか?

⇒ 日本書紀の編纂をすすめていた当時の天皇は、天武天皇の皇后である天智(百済王子・翹岐)の娘・宝姫(持統女帝)で、それを監修していた藤原不比等は、持統女帝を持ち上げ媚びて、女帝統治の正統性を強調するために皇祖神を女神・アマテラス(大日靈尊:向津姫)に据え換えた。 例えば本来の皇祖神・天照御魂大神は、男神である諡号「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてらす・くにてるひこ・あまのほあかり・くしたま・にぎはやひのみこと)の饒速日尊であるが、日本書紀成立時に出雲系須佐之男尊と饒速日尊の建国史実は神代の神話にして誤魔化し、天孫降臨説話とするために神武天皇の祖母である邪馬台国女王日霊女貴尊(卑弥呼)を天照大神にすり替えた説が有力です。
その為に日本書紀の編纂途上、持統天皇は持統五(691)年八月十三日、須佐之男尊や饒速日尊を祀る大神神社や石上神宮の斎主だった三輪氏や物部氏をはじめ、十八氏に古記の提出を命じて没収し、さらに元明天皇即位した和銅元(708)年正月、天下に大赦を出し「ただし山沢に亡命して禁書を隠し持っている者は百日以内に自首せよ。さもなくば恩赦しない」という詔勅を出しています。 従って、日本書紀の天智・天武天皇以前の歴史は信用できない!と思っています。

小生の持論は、「古代/上代日本正史」原田常治著、「古代天皇家と日本正史」中丸薫著(徳間書店)その他の書物、それに関連した多くの比較的信頼できるネット情報などをまとめた持論なので矛盾していません。

飯山さんもこの「古代/上代日本正史」原田常治著と「古代天皇家と日本正史」中丸薫著を読まれたコメントを聞かせてもらえれば幸いです。

鹿之助拝

6:飯山一郎 :

2011/01/17 (Mon) 18:40:13

host:*.bbtec.net
鹿之助さん
もう一つ質問させて下さい。
貴殿は、邪馬台国と天皇家の関係を、次のように表現されました。

1.「神武天皇は…、西都の祖母邪馬台国卑弥呼女王(大日霊女貴尊;
  天照大神)に挨拶され…、」
2.「天皇家のご先祖の邪馬台国(日向王朝)は、薩摩半島、大隈半島、
  それに本拠地の高千穂・西都地域が領地、つまり宮崎県、鹿児島県
  の南九州であったと思います。」

鹿之助さんが以上のように表現された「邪馬台国と天皇家の関係」は、
いったい何を、どんな文献を論拠にしておられるのですか?

そして、鹿之助さんは、神武天皇や邪馬台国の卑弥呼女王が九州南部
に実在していた! と本当に信じているのですか?

以上のことと、鹿之助さんの持論、「日本書紀の天智・天武天皇以前の
歴史は信用できない!」は矛盾しませんか?

上の質問の返事は、早いほうがいいです。気になるもんですから (^_^;
よろしくお願いします。

飯山一郎 夜狸
5:飯山一郎 :

2011/01/17 (Mon) 16:58:16

host:*.bbtec.net
鹿之助さん
貴殿は、次のようなことを書かれてます。

 日本書紀の天智・天武天皇以降の歴史は信用できる。
 日本とは天智・天武天皇が飛鳥王朝を簒奪した百済再興王朝だ。
 天智天皇、天武天皇は扶余族末裔の百済王族ではないのか?!
 
そこで、質問。
扶余族末裔の百済王族である天智・天武天皇は、どのような経路で
日本列島に入ってきたと思いますか?
このとき、天智・天武天皇は、九州南部に行かれてますか?
 
鹿之助さんは、大隅など九州南部を踏査されてます。
東串良では唐仁古墳群を見たあと、神武天皇御東遷の石碑も御覧
になってます。
そして…、
「この旅で奈良にある柏原神宮の名前由来は、神武天皇が志布志
湾岸東串良の柏原に吾平津姫と娘の豊受姫と3人でお住まいに
なっていたからの説に納得できました」
と書いてます。
これは神武天皇の大隅での実在! を信じて言ったことですか?

「唐仁古墳」から6kmほど北東の「横瀬古墳」(壮大な前方後円墳)
には行かれましたか?
それから、「唐仁古墳」から4kmほど南西の「塚崎古墳」は御覧に
なりましたか?
この3つ古墳群を結び繋ぐと、その先に「西都原古墳」、さらに…、
その先には「厳島神社」、その先には「出雲大社」が、一直線上に
並ぶのです。この意味は、分かりますか?

まだまだ質問があるのですが…、
先ずは以上5個の質問に返答いただければ幸甚です。

                                飯山一郎
4:鹿之助 :

2011/01/16 (Sun) 23:06:27

host:*.plala.or.jp
飯山一郎様


小生は仕事の出張で国分市(今の霧島市)に通っていたことがあり、ヒコホホデミ尊の住居跡の鹿児島神宮とすぐ近くの高千穂旗揚げの舞台となった跡の石体社の「神代聖蹟高千穂宮跡」記念碑、空港近くの溝辺町の高屋山上御陵は度々訪問しましたが、10年ほど前に「古代/上代日本正史」原田常治著を検証するための南九州一周の車旅行で大国主命を祭った都農神社を皮切りに、西都原古墳群、薩摩仙台市の新田神社にある可愛山陵(ニニギノ尊の御陵)、大隈半島の真ん中にある吾平山上岩窟(ウガヤフキアエズノ尊の御陵)を訪問しましたが、この吾平山上岩窟は伊勢神宮の五十鈴川岸に似た川岸があり全体的に荘厳な感じがして小生の好きな場所でこの後に2回も訪問しました。

その後に志布志湾に行き、東串良の柏原地帯の唐仁古墳群を見ましたが、神武天皇御東遷の石碑もありました。そして都井岬を経て神武天皇日向時代の妃の吾平津姫が祭られている日南市の吾平津神社を訪ね、最後に神武天皇を祭っている宮崎神宮を訪問しました。
この旅で奈良にある柏原神宮の名前由来は、神武天皇が穀倉地帯の吾平平野に住まわれたご両親近くの志布志湾岸東串良の柏原に吾平津姫と娘の豊受姫と3人でお住まいになっていたからの説に納得できました。
出雲大和王朝の末子相続人イスケヨリ姫への婿入り決定に伴い、神武天皇は住まわれていた柏原から吾平津を経て西都の祖母邪馬台国卑弥呼女王(大日霊女貴尊;天照大神)に挨拶され、実際の神武天皇の御東遷の出航地は都農と延岡の間の美々津浜からとの説があります。

従って、宮内庁が詰所で管理している天皇家ご先祖の三つの陵が証明するように、天皇家のご先祖の邪馬台国(日向王朝)は、ニニギノ尊の薩摩半島西側、末子相続人ウガヤフキアエズノ尊の大隈半島、ヒコホホデミ尊の薩摩半島東側、それに本拠地の高千穂・西都地域が領地、つまり宮崎県、鹿児島県の南九州であったと思います。

但し、神武天皇と現在の天皇家がいわゆる万世一系の男系で血のつながりがあるかどうかは、崇神天皇、応神天皇、継体天皇、欽明天皇、天智・天武天皇、南北朝の後小松天皇・後花園天皇、そして明治天皇などに男系継承の疑惑があります。
しかし、神武天皇自身が出雲大和王朝の末子相続人イスケヨリ姫へ婿入りしたわけで、それぞれの天皇が婿入りまたは簒奪等の形式で古代天皇家を継承しているとすれば、鹿児島県内の三つの陵を宮内庁が詰所管理している意味があります。

ところで、「古事記に隠された聖書の暗号」石川倉二著によれば、鹿屋は「鹿屋野比売神」に由来し、朝鮮半島南部の伽耶のことのようで、ひょっとしたら動乱時に伽耶から渡来した人々が住んだ地名が変遷して「鹿屋」となったのかもしれませんが、小生の鹿とは関係ありません。

「扶余」はツングース語では「鹿」の意味ですが、この「鹿」と鹿児島の「鹿」は…、何か関係があるという思いは鹿之助さんにはありますか?との質問ですが、邪馬台国卑弥呼女王(大日霊女貴尊;天照大神)の武将の武甕槌命・経津主命・天兒屋根命を祭る藤原氏の奈良・春日大社の鹿と「扶余の鹿(小生はエフライム族の紋章ユニコーンのアジア版と思っています)」は関係があるのではないかと思っています。
この邪馬台国の領地である薩摩・大隈地方がなぜ鹿児島という地名になったのか知りませんので、鹿児島の鹿と「扶余」の「鹿」との関係は考えたことはありません。


鹿之助拝
3:飯山一郎 :

2011/01/16 (Sun) 12:18:30

host:*.bbtec.net
鹿之助さん
 文章なんてものは、金魚のウンコと同じで、長くてもEのです。
 短かい文章だと、キャッチコピーか、ウサギのウンコです。
 まぁ、ウサギのウンコはコロコロで短すぎますが…。
 さて…、
 質問があるのですが…、
 鹿之助さんは…
 「吾平山上岩窟(ウガヤフキアエズノ尊の御陵)、可愛山上陵(ニニギノ尊の御陵)」
 と書いておられましたが、可愛山上陵のニニギノ尊は明快だからEとして…、
 吾平山上陵のウガヤフキアエズノ尊は、神武天皇の父祖ということですよね?
 しかも、神武天皇生誕の地や、産湯をつかった池が近くにある。
 ということは、神武天皇一族の先祖代々の領地は、吾平山の近辺だと宮内庁も
 信じている、ということですね? 鹿之助さんは、どう思います?

 そしてまた、吾平山を下って、肝属川を下って、柏原海岸の波見港の丘の上には、
 「神武天皇御東征御発航の地」と大文字で彫られた巨大な石塔がそびえている。
 とにかく、この志布志湾近辺で、神武天皇は降誕され、お育ちになり、志布志湾から
 発航し(船を出し)、東征の旅に出られた。
 つまり志布志湾一帯は、天皇家の御先祖様の土地だ! と、 …いうことですね?
 鹿之助さん、どう思います?

 あ、それから…、
 鹿之助さんという名前は、本名ではないと思いますが…、
 「鹿」という字は、鹿児島、もしかしたら鹿屋(かのや)の「鹿」ですか?
 あと…、
 「扶余」も、ツングース語では「鹿」の意味ですが、この「鹿」と鹿児島の「鹿」は…、
 何か関係があるという思いは鹿之助さんにはありますか?
 
 以上。少々長い文章でもEですから、なるべく早く、短い返事を賜れれば幸甚です。

                                           飯山一郎拝
2:鹿之助 :

2011/01/15 (Sat) 23:13:37

host:*.plala.or.jp
飯山一郎様

多忙のため、ここしばらくはこの閲覧・投稿はしていませんでしたが、今回 古代史に興味のある方にその情報の一端を紹介しようと投稿しましたが、少々長い文章となり、興味のない閲覧の皆さんにはご迷惑をかけたようで、この場を借りてお詫びします。

小生は先人の知識、既存の書物、ネット等のいろいろな情報を収集して分析し、仮説を補強する活動をしていますが、必要に応じて今後は簡潔にまとめて投稿するのでよろしくお願いします。
尚、ゲストブックではご指導のほどよろしくお願いします。

鹿之助拝

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