The Emperor shall be the symbol of the state
最初の一文を見た。
たったの一文だった。
簡単な一文だった。
主語と動詞は、ひとつずつしかない。
そのとき、なぜだろう、今まで思ったことのないことを思った。
誰も言わなかったことを思った。
あれ? shall って、なんだっけ?
わたしの中では無意識に、この英文は、こうなっていたのである。
The Emperor IS the symbol of the state.
「天皇は日本国の象徴であり」という日本語を英語に直訳するなら、多くの人の頭の中で、そうなる。
天皇は存在する。
自然に、存在する。
肉体があり、天皇は、存在する。
が、is(be動詞)ではない。
ここまで考えてきたことのすべてを覆すほどの力が、shallというたったひとつの助動詞にあった。
わたしは、いわば、この助動詞を、無きものに扱ってきたのだった。
The Emperor shall be the symbol of the state
このときの衝撃を、どうしても、脈絡の中で書くことができない。一瞬にして、理解の飛躍が起こった。
そこには、曖昧で不可思議なことが書かれているのではなかった。
きわめて明快な、論理的なほどに明確な、書き手の意志が書かれていた。
「天皇は、日本国の象徴で『あるべき』である」
こう書き手の意志を読み込んだとき、これがわざわざ、大日本帝国憲法と同じ構成の第一項第一条に置かれているわけが、よくわかった。
これは、
「大日本帝国憲法ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」
の、正確な無効化条項であり、だからこそ、同じ場所に置かれている。
憲法を論じる人はよく、9条を問題とする。9条こそが日本国憲法の真髄であり象徴であると。
でもわたしが思うに、9条は、おまけだ。国体を徹底的に無力化して、どさくさに紛れ込ませた感じがする。
shallにつきまとうのは、宿命や運命の香りである。
そう運命づけられた存在であること。
だったら、天皇とは、象徴であると運命づけられた人、ということになる。
誰に?
アメリカにである。
これは、もう、何も言いたくなくなるような無力感だった。
憲法をめぐる議論は、あまたあるが、みなが依拠しているのは、一条ならこういう文章だった。この文章に依拠すること自体をためらった人を、知る限りでは、見たことがない。
「天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」
しかしこれは「原文」だったらどうなのか?
”The Emperor shall be the symbol of the state and of the unity of the people, deriving his position from the will of the people with whom resides sovereign power.”
まずは「日本国民」という言葉はないし、「総意」もない。
「統合」に当たるのはintegrationでもない。unityはunitから来ていて、どちらかというと「一体感」というのが近い。
世界に流通する日本国憲法が、日本語からの翻訳でない限り、日本のものがむしろ日本的翻訳と言うべきで、憲法は、内と外への顔が違う。
微妙なようで、大きく違う。
そして私達の頭は、「対内ヴァージョン」でできている。
余談だが自衛隊をめぐる齟齬もここから来ているところが大きいと思う。
*
無力感を感じるうちに時は進み、一般レベルでは「象徴とはなにか」などという議論はほとんどされなかった。
そうこうするうちに、「令和元年」が来た。
まるで大晦日と元日のような騒ぎで、総じてハッピーな一体感の中に、日本中があった。
第一条の英語は、本当に的を射たものであったと思う。
いや、日本と日本人を見て得た洞察を、条文にしたものである気がした。
それはこういうことだ。
「日本国と日本人は、天皇をシンボルとして一体化しやすい国民である」
まことに、そうである。