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2018年元旦,金正恩,五輪外交を開始!平昌五輪を大成功に導く.習近平が金正恩を超国賓待遇!金正恩が米朝首脳会談を提案,これをトランプが即断で受諾!金正恩,板門店から韓国に入り,南北首脳会談.大成功!トランプが5月中の米朝首脳会談を示唆.マティス国防長官が「駐韓米軍の撤退」を示唆!…まさしく激動の2018年だ.この激動の切っ掛けをつくり,激動をリードしてきたのは,金正恩(34)だ!今後も金正恩は世界をリードする!目が離せない.深い考察と議論が必要だ.
(M部長・飯山一郎)
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1:(削除)
:
2021/09/04 (Sat) 09:10:32
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(投稿者により削除されました)
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249:mespesado
:
2022/02/12 (Sat) 00:47:49
host:*.eonet.ne.jp
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別スレでの質問↓について。
https://grnba.bbs.fc2.com/reply/17339954/255/
> 頑張らなくてもいい時代が来ていると、
> 貴香くんやメスペくんが書いているが、
> アホか?
それじゃあ聞くが、今現在、不遇な人は、「頑張ったら良くなる」のか?
そもそも論として、マクロ的な考え方を考慮した上で、「頑張る」必要があ
るのはどのような状況の場合なのか考えたことがあるか?
モノやサービスの生産が人力に依存している技術不足の時代においては、
供給量が全体として不足しているために、「頑張る」あるいは同じことだが
「額に汗を流して働く」ことによって生産性を上げて生産量を増やすことで、
物理的に供給不足を改善することができた。←これこそが、「頑張る」とい
うことの本来の意義だったはずである。ところが、世の中は、技術革新のお
かげで、モノの生産が人力に依存しなくても済むようになり、人間は肉体労
働から解放された。ところが、これは、一見すると、肉体労働が頭脳労働に
変わっただけであり、人々は相変わらず頭脳労働で「頑張」り続けなければ
ならないように思うかもしれない。特に学歴社会では、頭脳労働を肉体労働
より「優れたもの」と見做す人が増えて、肉体労働に頑張っていることすら
「見下す」ようになってしまった。
しかし、考えてみて欲しい。生産が人力に依存していた時代は、肉体労働
の量がそのまま生産量に比例していたから、すべての労働者が「頑張る」こ
とは、生産の増加を意味するから、物理的にも意味があった。ところが労働
が肉体労働から頭脳労働にシフトしたとき、モノの生産量は「頭脳労働」の
量に比例するか?するわけがない。なぜなら頭脳労働の成果とは、すなわち
ソフトウェアだから、一人の人間が画期的な「発明」をすれば、それを全世
界で「利用」すれば、一挙に生産量は拡大する。つまり頭脳労働の時代にな
ってからは、「労働量」と「生産量」が比例しなくなったのだ。つまり、頭
脳労働の時代においては、皆が「頑張る」ことは、物理的には全く意味が無
いのだ。一部の発想力に長けた人「だけ」が「頑張れ」ば、物理的には十分
な時代になったのである。それでも皆が頑張らなければならない、などと主
張するのは、人間の「ずるい」という感情をなだめるために、物理的には何
の意味も無いのに、単なる不公平感を持たせないだけの為に、皆に平等に、
「頑張ること」を強制しているだけのことに過ぎない。
以上のように、「頑張らなくてもいい時代」は、既に到来しているのだ。
ただし、「一部の人間だけが頭脳労働で頑張らなければならないなんて、ズ
ルい。意味が無くてもみんなで頑張るようにしておかないと不公平だ」など
と、物理的には全く意味のない制約によってシバキあっているのが現実の現
代社会なのだ。そのバカバカしさに皆が気付いた瞬間に、この世の中は、ひ
とりでに「頑張らなくてもいい時代」に成るのだ。
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248:mespesado
:
2022/02/12 (Sat) 00:18:15
host:*.eonet.ne.jp
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>>247
> 先々どーなって行くのか分からないが、「新しい時代」は必ずやってく
> ると言い切れる根拠は何か?
昭和の頃までは、技術不足で、物理的に供給不足の時代だった。
それが、その後のナノ・テクノロジーなどの技術進歩により、物理的な供
給不足は解消し、それどころか人類全体の総量で見た場合には供給過多の世
の中になった。それなのに、現実には未だに世の中には貧富の差がある。と
いうか、それどころか、その格差はますます拡大している。
過去の供給不足の時代なら、全体のパイが不足しているんだから、貧困を
皆無にすることは物理的に不可能だった。そこで、共産主義のように、すべ
ての人の「持ち分」を強制的に同じにするか、あるいは、才覚を自由に発揮
してもらって、才覚のある人は豊かになるが、そうでない多数の貧しい人を
残すという資本主義を追求するしか、我々に選択の余地はなかった。前者を
採用すれば、皆が物質的に平等だが、全体の供給量が不足しているのだから、
これは皆が一斉に貧しくなるという夢も希望も無い世の中になることを意味
する。また、後者なら、豊かな人間は存在するが、全体では不足しているの
だから、大多数は貧しさに甘んじなければならず、これを「成功者」達は、
「自己責任」の名の下に、貧富の差を正当化していただけであり、世の中は
世知辛いままである。そんな時代なら、「皆が物質的に幸せな社会が来る」
などと言っても絵空事であろう。
ところが、現代は、人類全体としては供給過多が実現した時代である。に
もかかわらず相変わらず貧しくて不幸な人がいるとすれば、それは人間の心
が過去のような支配欲や優劣の感情に毒されているせいで、無意識的に「わ
ざと」豊かさが全員に行き渡らないようにして「万民の幸福」が実現しない
ようにしてしまっている、ということに他ならない。
つまり、供給過多の時代が到来した時点で、物理的には皆が幸せになれる
環境はできあがっているのだ。あとは、人間の「心」が「過去のしがらみを
捨て」さえすれば、皆で幸せを分かち合うことが物理的に可能になったのだ。
「新しい時代が来る」とは、既に物理的には可能になった現代において、
あとはその「心のしがらみを捨てる」ことができたとき、現実にもそれが可
能になるわけで、その「心のしがらみを捨てたとき」が、イコール「新しい
時代の到来」ということに他ならない。