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柿本人麿と九州王朝

1:明石原人 :

2016/12/16 (Fri) 10:56:09

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「一元通念は、論証を経ておらず、
その正しさを証するに足る根拠もない。」・・・・・・中小路駿逸

「近畿大和なる天皇家の王権は、
七世紀よりも前から日本列島内で
唯一の卓越して尊貴な中心的権力であった。」・・・一元通念(一元史観ではない。単なる通念。)


「七世紀よりも前から」が、大嘘。

「七世紀より前は九州王朝。」  (その前は出雲王朝。そして・・・その前は分からないが・・・・。)

近畿天皇家=大和朝廷は、「八世紀から」。

八世紀の近畿天皇家自身が、正直に、我が王朝の始まりは、八世紀からだと宣言している。

『日本書紀』『続日本紀』の読み間違いが一元通念を生み出している。

一元通念ではなく多元史観で歴史をみる。論証と根拠が必要。

一元通念を非としたとき、
東北王朝、関東王朝、越王朝、吉備王朝、出雲王朝、九州王朝、近畿王朝・・・が、浮き出てくる。

多元的古代の登場。

多元史観で古代を語ってみたい。

人麿を中心にして。


28:Mm :

2017/01/12 (Thu) 13:09:32

host:*.ocn.ne.jp
現代でも山東辺りから飛行機で関西方面へ飛ぶと、まず黄海へ出て朝鮮半島を横切り、出雲辺りから日本上空に入る。
瀬戸内海に出て高松手前を左旋回し、淡路島を横切り堺の手前を大きく右旋回し泉州・河内を左に見ながら関空へ降りる。
いにしえの行程の一つを喚起させられるやうな気がするルートではある。

欧亜大陸~朝鮮半島~日本列島のひろがりのなかで、九州王朝説・多元史観がアップグレードされると非常に面白いだらう。
一元的な畿内王朝説ほどではないが、九州王朝説も日本列島を中心に考えてしまう宿痾がある。
歴史観が真に近づいて行く過程は、人々の意識の深層まで含めたセラピーの過程でもある。

それにしても『記紀』編纂の過程であつたであらう焚書の凄まじさを思ふ。

歴史探求は不可避にセラピーである。
セラピーぬきの論争は不毛である。

27:Mm :

2017/01/11 (Wed) 14:10:53

host:*.ocn.ne.jp
日本列島史の不明瞭さは、朝鮮半島史の不明瞭さと対になつてゐる。
百済=朝鮮(半島)ではない。ユーラシアの広大な内陸部の謎がある。
山形飯山説と九州王朝説が統合されれば非常に面白くなるでありませう。
26:堺のおっさん :

2016/12/29 (Thu) 15:54:04

host:*.ocn.ne.jp
現状では百舌鳥古市古墳群は世界遺産登録されないと見ています。
現地では「何で採用されないのか不思議だ」という空気ですが、
そもそも世界遺産にしてもらっては宮内庁が困るのです。

別角度からの調査などされるのも大問題なので、絶対に「うん」と言わない。
その意味が、現地ではわかっていません。
ならないものを必死で運動している様が不憫です。
25:Mm :

2016/12/29 (Thu) 15:42:29

host:*.ocn.ne.jp
古墳時代の終了する7世紀末ごろ以前の列島(および半島・大陸)の群雄割拠的な多元史の様相と、それが一元的「日本」化されてゆく過程がどこまで見えてくるのでありませうか。
飯山一郎先生が採用してゐる、邪馬台国は日本列島には無かつた、といふ説を妥当とするならば、従来説の大きな前提が霧消します。
古墳時代の九州北部や奈良盆地の諸勢力は、それとは全く別ものといふことになります。
飯山先生の重要視される西都原古墳群も、そのうち見ておきたいと思ふ。
http://kofun.info/kofun/608

徹底的な客観的解明は「日本」が消えた後でなければ無理なのかも知れませんが。
「日本」じたいが自己更新できないのであれば、「日本」の後継国がそれを解明することになるでせう。
そこでやうやく逆説的に“クールなジャパン”が出現するでせう。
その段階になつて、「天皇陵」古墳群の“世界遺産”登録といつた話しが淡々と明晰に出来るやうになる。
ともかく現時点では「日本」はナイーヴに過ぎ、クールとは程遠いのです。

24:明石原人 :

2016/12/29 (Thu) 01:56:01

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>>22
>>23

この観点はすばらしい。

で、もう少しその観点を、神籠石山城群(こうごいし・やましろ・ぐん)に移してみよう。

おつぼ山・帯隈山・雷山・女山・高良山・杷木・鹿毛馬・御所ヶ谷・唐原・石城山
(神籠石山城群の分布図 出典:『失われた九州王朝』ミネルヴァ書房559頁「日本の生きた歴史二」)

23:Mm :

2016/12/29 (Thu) 00:51:56

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>仁徳陵が海岸線の最前線。応神陵が大和へ攻め上る最終防衛ライン
応神陵は東側に比べて西側が非常に厚い感じがあり確かに砦的です。
その北側の古室山古墳は監視塔としての用途が考えられます。
22:堺のおっさん :

2016/12/28 (Wed) 15:11:18

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7世紀半ば、といえば650年ごろですが、泉の国は農業を支えるため池群がまだできていません。
行基が作ったこれらのインフラで増産=人口増が可能となったと思います。

では、6世紀の泉地方の人口はどれくらいであったか。かの古墳群を造営するには
相当な人口でなければ不可能だと思います。

そこで、現地で検分する限り巨大な国家が必要となります。
具体的な数字をはじき出せれば論証も進むのでしょうが、そこは勘弁してください。
結論から言うと、古墳群は当時はもっと小規模のものでなかったかということです。

それを、百済系の国家が大和に入って以降、大規模に改修造営したのが現在残されている
古墳群ではないかということです。

何のため? 唐の大軍勢が押し寄せてきた時の防衛線としてです。
地図を眺めると、仁徳陵が海岸線の最前線。応神陵が大和へ攻め上る最終防衛ラインとして
設定されたのではないか?

このように見ると、堺・羽曳野の平野で大軍勢を押し包みせん滅するという軍事
戦略が見えます。


なお、応神陵は西側のみ堀も土塁も強化されています。応神陵から見た西側とは
もちろん海側。唐の上陸に備えての造営ということになります。
以上は、かねてからの仮説です。
21:Mm :

2016/12/28 (Wed) 14:51:26

host:*.ocn.ne.jp
北河内に移動してゐたんですか。
文献注文しました。
歴史的時間軸と地理的空間軸が次第に整理されてゆくやうです。
20:明石原人 :

2016/12/28 (Wed) 06:21:29

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>>16
>>17

http://swa.city-osaka.ed.jp/weblog/index.php?id=e741695&date=20140525

枚方市の百済寺は想い出の場所です。
彼女に口づけをしようとしたその時、突如ボーイスカウトの少年達が下の坂から現れ、
あわててできなかった。あわてることなく、事に及べば良かったのにと、今では苦い想い出。

滋賀の百済寺はひゃくさいじ。高速バスの停留所の名前にあったのを覚えています。

「くだら」は日本読み、「ひゃくさい」は何読みかな。
19:明石原人 :

2016/12/28 (Wed) 00:20:13

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>>17
>>18

自治会の仕事で大忙し。

冨川ケイ子さんによる「河内戦争」(『盗まれた「聖徳太子」伝承』明石書店)
というすばらしい論文があります。

河内国を中心とした「八つの國」を支配していた萬。

この萬の勢力が築いた前方後円墳の多くが畿内の巨大古墳。

近畿天皇家とは縁がない。

萬は九州王朝の「朝廷」に滅ぼされた(日本書紀・巻第21/泊瀬部天皇即位前紀・空位期七月)。

白石太一郎の「前方後円墳の終焉」参照
18:Mm :

2016/12/27 (Tue) 15:16:19

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明石の先生の講義が御進行中ではありますが、大雑把な所感を少々。
くだらある人々が日本列島の外からやつて来た7世紀半ば頃の時点で、大和・河内・堺その他の古墳群は既に存在した。
だがそれ以前には「日本」も「天皇」も存在しなかつた(成立するのは8世紀初頭)。
つまり、それらは「天皇陵」ではなかつた。
しかし元々それらの古墳群を作つた人々、即ち後世に勝手に「日本」の「天皇」にされてしまつた支配層の人々は、何時何処から来たのか。その正体は何系なのか。
くだらある人々が激しい対立もなく入り込んでゐる(?)ことからすると、元々同系かそれに近いルーツの人々なのか。
『記紀万葉』編集過程で、それ以前からの文書の大部分は焼かれてしまつたのだらうか。
兎も角7世紀半ば以前の「天皇陵」のどれがどれなのかといつた議論は相当くだらないやうに思ふ。
17:Mm :

2016/12/26 (Mon) 17:14:48

host:*.ocn.ne.jp
誰の墓なのか不明な「天皇陵」
http://www.mag2.com/p/news/211129

文久から明治にかけて治定された「天皇陵」
http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-90707.htm

「天皇陵」一覧
http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/successive_list.html
16:明石原人 :

2016/12/26 (Mon) 16:56:57

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大和三山の話、「高山」の話は、まだまだあります。

でもやっと人麿にたどりついた。


万葉集巻二・223番

柿本朝臣人麿、石見の国(いわみのくに)に在りて死に臨む時、
自ら傷(いた)みて作る歌一首

鴨山の岩根し枕(ま)けるわれをかも知らにと妹(いも)が待ちつつあらむ

(この鴨山の岩根を枕にして死のうとしている自分を、そうとは知らないで、
妻がひたすらに待ち焦がれていることであろうか)


「岩根し枕ける」を言うために延々と大和三山から、「高山」を語ってきたのです。

磐姫の歌:かくばかり恋いつつあらずは高山の磐根し枕きて死なましものを
(こんなにも恋い慕っていないで、高山=交野山・コノサンの大岩の元で
そこを枕にして死んでしまったらよかったものを)


「岩根し枕きて(死ぬ・・)」・・・恋い慕ってきた、そして
愛し合ってきた、そんな二人が別れる、せつないどうしようもない
場面で使われる言葉。・・・これが言いたかっただけです。

そしてどちらも大岩の元での死を示している。

鴨山と高山。どちらにも大岩が存在する。




15:明石原人 :

2016/12/26 (Mon) 08:12:34

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津田元町の西側に妙な名前の地区というか村がありました。

「大峰村」

小さな地区なのに、「大峰村」。

国見山、交野山が「高山」であったころ、
その麓に大きな津田地区を含めた大きな村があったのではないか。
それが「大峰村」。

「高山」の崩落により大峰村の大半が埋まる。

埋まった崩壊土の上に、入植した人々があったのでは。

それが津田地区。

なぜか津田地区には遺跡がない。

開発に伴い、遺跡がよくでるはずなのに津田地区は少ない。

高野街道の道筋も影響を受けたに違いない。

地元の方、だれかこんな観点から調査してほしい。
14:明石原人 :

2016/12/26 (Mon) 07:42:27

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大阪府交野市に『交野市史自然編Ⅰ』というすばらしい本がある。

この本ができるときの市長さん、原田誠一さんが、またすばらしい。

この本の序から。

「・・・十年程前に、たまたま府立交野高校に赴任されたご縁をもとに
ご無理を申し上げて、地質学の権威で理学博士の影守紀子先生に、
「交野市の自然」について、ご専門の分野からの調査研究をお願いしました。
先生はご赴任以来の休祭日を犠牲にして、全市域にわたる現地踏査を積み重ねて、
このたびご研究の成果をまとめて下さいました。・・・」

学術書です。うさんくさい市史がはびこる中、市長が一地質学者に絶対の信服をゆだねて
つくりあげられた学術書です。珍しい市史です。

影守先生にコンタクトをとろうとしましたが、
東南アジアのどこか忘れましたが、移住されていて会えませんでした。

この本を読み、また交野市の地質図をみると、交野山の崩落が頷けます。

隆起してきた花崗岩帯があり、飯盛山から交野山にかけて
特に交野山のほうが隆起が高くて、「高山」の存在がありうる。
しかも崩落は常にあったようです。
旗振り山から交野山にかけての尾根道に弥生の高地性集落を示す遺跡があることから、
それより北側で崩落が起きたようです。



13:明石原人 :

2016/12/24 (Sat) 22:21:42

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こうした調査を終え、もう一度甘樫の丘に行きました。

左の方角に生駒山が見えます。生駒山より交野山が高かったら。

見えます!

生駒山の高さを右の方へ移動。十分に見えるはずです。

崩落前の交野山だったら見えるはずです。

で、それが高山だった。

絵になります。

真っ正面に高山がかすかに見え、右前に耳成山、左に畝傍山。

絵になります。

高山は畝傍雄々しと耳成と相争いき神代より、
かくにあるらしいにしえも、
しかにあれこそうつせみも、妻をあらそうらしき。

この歌通りの景色になる!!

大和三山の歌は数珠の放射能測定年代をまつばかり。

高山がそういう存在だったなら、山城・山崎が解決する。

山城は山のうしろ、山崎はやまの前=先だ。

どこの山を指して、山城といい、山崎と言っていたのかが分かる。



12:明石原人 :

2016/12/24 (Sat) 15:03:44

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今から45年以上前、大阪府交野市の源氏の滝でキャンプをしたことがあります。

テントで一晩して、次の朝、交野山に登りました。

途中で白旗池に寄り、アケビをいっぱいとりました。

「源氏の滝」、「白旗池」って変に思いませんか。

このあたり、源平の戦いなどに全く縁がありません。

なのになぜこんな名前があるのか。

交野山の崩壊は源平の戦い以後、間もない頃だったのではないか。

それより前に滝や池があったなら、わざわざその名前を捨てて、
「源氏の滝」「白旗池」などとつけるはずがない。
源平の戦いと全く縁がないのに。

源平の戦いが行われた頃、世情がその噂で持ちきりだった頃、
この池ができ、滝ができた。
もちろん、交野山の崩壊によってだ。

白旗池が農業用のため池であるはずがない。
もちろん今は農業用にも使われてはいるが、
とにかく山の上過ぎる。

しかも人工的に、ため池として作られた記録もない。
崩壊によってできた池。

これなら理解できる。

交野山が生駒山より高かったという話。
交野山が崩落した言い伝え。
源氏の滝・白旗池。

そして大和三山の「高山」。



11:明石原人 :

2016/12/24 (Sat) 05:17:47

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線路を超えて山の方へ行きました。

地蔵池がありました。

地蔵池の由来:1883年(明治16年)の夏の大干魃がつづき、
貯水量の少ないため池しかなかった津田南部はとても大きな被害を
受けました。   津田の人々は、今後このような大干魃がおこっても
農業ができるように、その当時あったため池を改修し多くの水を
貯めることができるように計画しました。それが現在ある地蔵池の
堤体です。   その当時池の改修には沢山のお金がかかるため
多くの寄付をつのって行われ、1885年(明治18年)に完成
しました。   この池を掘っている間に、池中から太古の埋木が
多く出てきました。このことは今から数万年前も以前、このあたりが
海岸であった時に上流から赤土や砂利といっしょに流れてきて
埋まったものです。    またこの付近からたくさんの石地蔵が
出てきたので、この新しくできた池を地蔵池と呼ぶようになりました。


この由来を書いた方とは後に話をしました。

津田元町の方で、元小学校の校長先生でした。

時代背景、地理的状況の間違いを互いに確認しました。

数万年前に地蔵などつくられていないこと。

数万年前の埋木ではないこと。

この方によると、この埋木は非常に堅くて、改修当時
この埋木で数珠をつくられたそうです。京都の業者に
依頼して数珠をつくったもらったというのです。
なんとすばらしいことだ。放射能測定年代で
埋木の年代が分かる。津田元町の中を探せば
その当時につくられた数珠は見つけられる。
私は今、明石。誰か地元の方、調査してください。

津田駅前の奥西さんの話とつながりました。

埋木は同じ時期のもの。

津田駅の給水塔作りで出てきた大木群と地蔵池の埋木群
とは、同時期だ。

鎌倉初期、源平の戦い後ではないか。なぜか。
どちらにせよ、埋木でつくった数珠の年代を
測定すれば、ハッキリすることだ。

10:明石原人 :

2016/12/20 (Tue) 06:14:42

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大阪府枚方市。枚方市の津田元町。

このあたりでは、交野山を「このさん」という人がいる。

こんな話を古田先生に言いました。

古田先生、早速それを確かめようと、交野市の市役所に問い合わせ。

交野山だから、交野市で聞けばよいと思われたのでしょう。

「○○さん(明石原人)、交野市に問い合わせたけれど、
交野山をこのさんなどという人がいるなど、聞いたことがないと言われたが。」

知人に聞いた話を先生にしてしまい、こりゃえらいこっちゃ、先生に嘘を言ってしまったか。

早速、現地調査に入りました。

近くのお寺。住職の奥さん。「交野山」「このさん」と書いた紙を見せながら、
「このさん」という言い方を聞かれたことがありますかと尋ねました。

「このさん(交野山)を、「このさん」と言う人、知りまへんなあ。」

「あれ、今、あなた「このさん」って言われましたね。」

奥さん、どぎまぎ。自分ではこうのさんと発音しているつもりが、
「このさん」と言ってしまっている自分を発見。

津田の駅前に移動。駅前の奥西さんという方と話す。

「そんな言い方知りませんな。」

「わしは倉治(交野市)の出身やから知らんだけで、津田元町の人なら言うてるかもしれんが。」

がっくり。

でもその方から貴重な話が聞けました。

何でも国鉄ができるとき、駅をどこにつくるかもめたそうです。

風紀が乱れると言うことで、
倉治(交野市)も津田(枚方市)も自分の村に駅をつくることに反対。

結局、両村の境につくることになった。

駅に給水塔をつくるため、大きな井戸を掘ったそうだ。

ところが地中から大木が大量に出てきて大変だったとか。

昔、交野山は今より高くて、生駒山より高かったそうだ。

それが崩れて、そのときの山の大木が埋まっていた。

奥西さんは津田の駅前のバレーヒルズ津田駅前ビルの持ち主。

ビルを建てるとき、大木が出てくるぞと言っておられたのに、大木は出てこなかったそうです。

この近くに春日神社は、二つあるが、西の方の春日さんは山が崩れて、避難してできた春日さん。

みんなが今お参りする大きい春日さんは、その後。

貴重な話でした。

奥西さんと家の前で立ち話。そのあと北側へ移動。
JRの線路を東から西へ渡るとき、お百姓さんが一人田んぼで働いておられました。

なにげなく、「交野山をこのさんと言われる人ご存じありませんか。」

なんとその方、「うちの家内は、このさんと言うとるよ。」

「えっ。」

旦那さんはよそから。嫁さんは生粋の津田元町っこ。

しかもよく聞くと間接的に知っている人だった。不思議。

とにかく、「このさん」探しは成功。


9:明石原人 :

2016/12/19 (Mon) 03:53:55

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三角関係:今(現世)・・・・天智天皇の時代

万葉集巻一・20番21番

20:あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る・・・額田王

21:紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも・・・皇太子(天武天皇)

神代。高山、女。畝傍山、男。耳成山、女。・・・女、男、女。

昔。「斯(か)くにあるらし古昔も」昔もこのようであったから。
つまり、磐姫、女。仁徳天皇、男。八田皇女、女。・・・女、男、女。

うつせみ(現世・今)。神代も昔も三角関係。
「然にあれこそ」=「だから」、同じ三角関係で、今も、いや今は、「嬬(つま)をあらそふらしき」。
天智天皇、男。額田王、女。皇太子(天武天皇)、男。・・・・男、女、男。
「今も、いや今は」男、女、男で「あらそふらしき」。


8:明石原人 :

2016/12/18 (Sun) 06:42:54

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三角関係:昔・・・・仁徳天皇の時代

万葉集巻二・85~88番

難波高津宮に天の下知らしめし天皇の代(仁徳天皇)
磐姫皇后、天皇を思ひたてまつる御作歌四首

85:君が行き日(け)長くなりぬ山たづね迎へか行かむ待ちにか待たむ

86:かくばかり恋いつつあらずは高山の磐根し枕きて死なましものを

87:ありつつも君をば待たむ打ち靡くわが黒髪に霜の置くまでに

88:秋の田の穂の上に霧(き)らふ朝霞何処遍(いづへ)の方にわが恋ひ止まむ


86の「高山」は、大和三山の歌の「高山」だ。

古田先生はこの歌の「高山」と三山の「高山」を同定されたのだ。

磐姫が住む筒城宮は京都府田辺市。
大阪府交野市(かたのし)の交野山(こうのさん・このさん)はすぐ近く。
筒城宮の裏庭の感じ。
田辺市側からはすぐに登れる山。
大阪側から見れば高い山。

「山たづね迎へか行かむ」という舞台設定はこのあたりを散策すれば理解できる。

鷹狩りに出かけると言って、山へ出かけ、天の川、淀川を下ればすぐに難波高津宮。

「高山」の頂上には大岩。そこからは難波高津宮が望める。

八田皇女の所へ出かける仁徳天皇。

「高山」の大岩の元で死にたい。「高山の磐根し枕きて死なましものを」

すごい歌ですね。嫉妬だのとふざけた解釈をする者がいるが・・・。

古田先生がこの悲しい歌を「ダミアの暗い日曜日」に例えて講演されたときは感激!!!でした。

人麿がこの歌を下敷きにして詠んだ歌もすばらしい。

そのために大和三山の歌をひっぱってきたのですが・・・。ひっぱりすぎか・・・。
7:明石原人 :

2016/12/18 (Sun) 05:09:46

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三角関係:神代・・・多分、出雲王朝時代。八百万の神が出雲に参集していた時代。
          
島根県出身の友達が、入試の時10月の陰暦を神在月と書いたら×なのでびっくりしたと。
話を聞いたこちらがびっくり。神無月(かんなづき)なのに。

でも八百万の神が出雲に集まれば、出雲以外は神無、出雲は神在だ。

なるほどなあ。

出雲王朝が身近に感じられませんか。

大和三山の反歌がある。

万葉集巻一・14番

高山与    耳梨山与   相之時   立見爾来之  伊奈美國波良
たかやまと みみなしやまと あひしとき たちてみにこし いなみくにはら


播磨風土記・揖保郡に三山相闘の伝説がある。

「出雲の國の阿菩の大神、大倭の國の畝火・香山・耳梨、三つの山相闘ふと聞かして、

此を諫(いさ)め止(と)めむと欲(おもほ)して、上り来ましし時、此処に到りて、乃ち闘い止みぬと聞かし、

其の乗らせる船を覆(ふ)せて、坐(いま)しき。故(かれ)、神阜(かみおか)となづく。

阜(おか)の形、覆せたるに似たり。」

原文は「香山」。「高山」ではない。


出雲の阿菩の大神が仲裁役でやってくる。仲裁役は位が上でないと収められない。

そもそも大和での喧嘩を出雲へなぜ知らせたか。

出雲が中心の時代だから、報告があって当然。

出雲に八百万の神が参集していた時代を神代としている。


6:明石原人 :

2016/12/17 (Sat) 17:09:25

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明日香村には、学生時代から何度訪れたことか。

大和三山の歌がどこで詠まれたのかと、どれだけうろうろしたことか。

やはり、甘樫丘が一番候補。

ここからの景色は抜群です。

左に畝傍山、前方に耳成山。

香具山は?

香具山は草むらの一つとして見えてしまう。

山の尾根の一部だから、こんもりした草むら状として見える。

でも、案内する人は、もったいぶって、山の尾根に沿って、天へとつながる尊い古代人の思想が、
なんちゃらかんちゃらと、バカげたことを言う。

草むらを香具山などと歌うか。

でもここからの景色は、三山に関係なく素晴らしい。

学生時代、真っ赤な夕日の中で見たここからの景色は今でも忘れられない。

古田武彦先生から、大和三山の歌の原文は、「香具山」ではなく「高山」だと教えてもらいました。

しかも、奈良県生駒市に「高山」という地区があり、
その近くにある大阪府交野市の交野山がその「高山」ではないかと。

万葉集巻一・13番

高山波  雲根火雄男志等   耳梨与    相諍競伎   神代従
たかやまは  うねびををしと みみなしと あいあらそいき かみよより

如此爾  有良之   古昔母 
かくに あるらし いにしへも

然爾有許曾   虚蝉毛  嬬乎   相格良思吉 
しかにあれこそ うつせみも つまを あらそふらしき 

この歌はさんさんさんだ。

三山・・・高山・耳成山・畝傍山

三代・・・神代・古昔(昔)・うつせみ(今)

三角関係:神代【高山(女)・畝傍山(男)・耳成山(女)】
     昔【磐之姫命(女)・仁徳天皇(男)・八田皇女(女)】
     今【天智天皇(男)・額田王(女)・天武天皇(男)】





5:明石原人 :

2016/12/17 (Sat) 06:12:32

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九州年号の「継体」と日本書紀の「継体」について

日本書紀に追記された漢風し号は、天平宝字六~八年(762~764)頃か。
神武から持統天皇、元明・元正天皇のし号が一括撰進されたことが漢風し号の初見。

時の矢印は 九州年号の「継体」→日本書紀の「継体」であって、
九州年号の「継体」に、日本書紀の「継体」が影響することはあり得ない。
逆ならあり得る。

九州年号の「継体」は、中国の南朝を受け継ぐ意味の「継体」
日本書紀の「継体」は、近畿における武烈の王権を受け継ぐ意味の「継体」

九州年号に関連した資料の多くが、
後からの日本書紀の「継体」を憚って、
逆に「継体」を削ることが多い。



4:明石原人 :

2016/12/17 (Sat) 05:38:36

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九州年号って、日本全国、各地で発見される年号群。

群馬県佐波郡角淵八幡神社・・・善記
秋田県鹿角市八幡平大日霊貴神社・・・善記
青森県南部小豆澤大日堂・・・善記
山口県熊手郡熊手町呼坂熊手神社・・・善記
福岡県福岡市香椎宮・・・善記
大分県宇佐市宇佐八幡宮・・・善記
宮城県栗原郡二迫屋敷村八所権現・・・善記
長野県諏訪市諏訪大社・・・善記
京都府京都市左京区鞍馬・・・善記
宮崎県高千穂八十八社総社・・・善記
熊本県山鹿郡中村久原村目一箇男神社・・・善記
静岡県宇戸浜・・・教到
奈良県吉野山金峰山・・・僧聴
兵庫県神戸市明要寺・・・明要
埼玉県秩父市秩父神社・・・明要
福島県大沼郡会津高田町伊佐須美神社・・・貴楽
愛知県南設楽郡鳳来町鳳来寺・・・金光
愛媛県越智郡大三島町・・・金光
鹿児島県川辺郡坊津町・・・鏡常
山形県東田川郡羽黒町羽黒山本社・・・勝照
滋賀県甲賀郡油日町油日大明神・・・勝照
長崎県松浦市・・・勝照
広島県佐伯郡宮島町厳島神社・・・端正
奈良県高市郡明日香村橘寺・・・光充
東京都台東区浅草寺・・・定居
千葉県松戸市小金井長谷山本土寺・・・聖徳
島根県・・・大長


3:明石原人 :

2016/12/16 (Fri) 19:35:36

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武皇后・・・・則天武后

『史記正義』(唐代中期・736年成立・張守節)

「武后、倭国を改めて日本国と為す。」・・・長安2年・702年

「倭国、武皇后改めて日本国と曰う。」・・・長安2年・702年

ほら、外国史料にも書いてあるじゃないですか。八世紀。

建元・・・大宝元年・・・701年
2:明石原人 :

2016/12/16 (Fri) 10:57:57

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近畿天皇家自身が我が王朝の始まりは、八世紀からだと宣言している。本当か。

『続日本紀』文武天皇大宝元年三月、「さりげなく」ちゃんと宣言している。

「三月甲午(3月21日)対馬嶋、黄金を貢る。元を建てて大宝元年としたまふ。」

元を建てる・・・「建元」だよ!!!

「建元」って、新王朝が初めて自分の王朝の年号を建てること。

我が王朝の始まりは「大宝」からですよと宣言している。

そして「平成」の今日まで近畿天皇家の年号は、途切れることなく続いている。

「大宝」より前の「大化」「朱鳥」「朱雀」「白鳳」「白雉」・・・は、九州王朝の年号。九州年号です。



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